ちょっと頭を低めて

「そういうわけだったのですか。すると、あのとき、誰か芦の間にひそんでいたのでございますね」「こんどのご上京は、もっぱら、そのためだけのように伺っておりますので、大切な折を、おはずしになるようなことは、なかったろうとぞんじます」 老人はちょっと頭を低めて、「わたしから、お礼をいう筋ではありませんが、それほどにしていただきまして、さぞかし、故人も恐悦したことでしたろう」 冬木へも、軽く目礼をすると、いつとなく笑顔をおさめて、「さきほどのくりかえしになりますが、文滋大姉も、あなたのおいいつけどおり、この一年の間、越後の雪の中で謹《つつし》んでおりまして、相当、むずかしいところを、やりとおしたように見受けられますので、そこまでなすってくだすったついでに、いっそ、越後からお迎い取りくださるわけには、まいりませんでしょうか」 冬亭は頭をさげて、「さきほどから、さまざまご懇情をいただきまして、ありがたくぞんじておりますが、わたくしのほうにも、ひとつ、おねがいがございますのです」「どういうことでございましょうか」「どんな事情がありましょうとも、ただ一人の肉親を捨て去るというのは、由々しいことでして、あなたさまといたしましては、ゆるしがたく、お思いになっていられることとぞんじますが、あの方も、そのためにいろいろとお苦しみになり、十分に、むくいも受けていられるのでございますから、それにめんじて、まげて、もとどおりに、お戻しねがいたいのでございます」 老人は背筋を立てると、いかめしい顔つきになって、「せっかくのお言葉ですが、文はもうこの世のものではありません。冥途におるものを、わたしがゆるすといってみたところで、戻れるわけのものでもございますまい。わたしがおねがいいたしますのは、肉親を捨て、そのうえに、あなたにまで見放されるのでは、さぞ辛かろうは思って、それで、おねがいいたしますので、わたしのゆるすゆるさぬは、別なことにしていただきましょうです」 冬亭は顔に血の色をあげて、

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