あの方を愛しております

「わたくしはあの方を愛しておりますので、そばにいていただきたいと、思わないこともございませんでしたが、それでは暗い人生になりますので、それはいたしませんでした。東京と新潟に別れて、つらい辛抱をしておりましたのは、あの方をそちらの籍へお戻しねがいたいためでしたが、ならぬとおっしゃるのでしたら、おゆるしの出るまで、このままでいるほかはございません」 老人は森閑と考え沈んでいたが、眼をあげると急に晴れやかな顔になって、「それで、文は、いま、どこにおりますのでしょう。もし、近くにいるのでしたら……」 と、それとなく了承の意をしめしたが、冬亭は、そっぽをむきながら、「今日の夜行で、新潟へお帰りになるように、うかがっていますから、いまごろは、上野の駅にでも、いられるのではないでしょうか」 と冷淡な口調で、こたえた。老人は、うなずいて、「これは粗忽でした。まだ、おゆるしをいただいていないのですから、あなたにおねがいできる筋ではございませんでした」 そういって、冬木のほうへ膝をむけかえると、「どういうご関係の方か、ぞんじませんが、たぶん、土井さんとお親しい方とお見受けいたします。唐突で、ごめいわくでもありましょうが、卒爾《そつじ》ながら仲人《ちゅうにん》をおねがいいたします。文を探して、池の汀まで、お連れくださるわけにはまいりませんでしょうか」 冬木は、うれしくなって、「それは、こちらから、おねがいしようかと思っておりましたことです……それで、門は、どちらの門から、お入れしましょうか」「ご念の入ったことで……今日は、表門《おもて》からではなく、裏の潜門《くぐり》からお入れくださいまして、池の乱杭石のあたりへおとめ置きねがいます」「時刻は、何時といたしましょうか」

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