科学の目的は認識であり

 尤も、科学が自分自身の原因のようなもので発達するという考え方の側からすれば、要するに科学を考えるためには技術はつけたりの問題にすぎなくなる筈だから、右のような問題を提出しようとする側は、すでに、科学の発達は技術などの発達に俟つという方の解答を要求していたわけだ。処がそこにまた相変らずの疑問が潜んでいる。 と云うのは、この解答を予想しながらかの設問を提起した側の科学史家が、最も誘惑を感じるのは、何となく科学を技術の手段のように見ようという態度である。科学の目的は認識であり、そして認識は実践と統一されているという。それは正にその通りでいい。しかしこの両者の統一なるものを十分根本的に分解するだけの論理機関が整備されていない処から、往々科学は実践の一手段[#「手段」に傍点]のようにも考えられ。やがて科学は技術への手段であるという風に考えられて来易いのである。この傾向は相当に誘惑的なのである。 こうした、云わば、技術のための科学は、忽ちその対立物として時にはそれへの反感の結晶として各種の、科学のための科学、を産み出す。ヒューマニズムという便利な足場を利用した人性のための科学も、往々実はここの科学のための科学にぞくする。例えば最近の科学者伝文学や科学者伝映画の多くは科学を技術へ持って行く代りにヒューマニズムへ持って行く。或いは技術を通らずに文化へ持って行く。この傾きも亦、文化的に相当誘惑的なものだ。 前者は一種の卑近な功利主義、一種の上つらの実行主義の誘惑である。之に対して後者は、一種軽薄な文化主義の誘惑である。科学の足を持って技術の地面につける代りに科学の髪の毛をつかんで天上のヒューマニティーや文化なるものへ引き上げて了うという意味で、軽薄なのである。併し二つは同じ源に発している。 この二派の対立を調停するには、科学、技術交互作用論を以てするか、鶏、卵・論を以てするか、又は水かけ論説を以てするかしかあるまい。即ち科学と技術との発達には決った先後の関係はないので、具体的には両者の交互作用があるだけだ、とする、物わかりの好すぎた俗論が第一、鶏と卵とはどっちが先かあてて見ろという逆説が第二。両方とも同じ権利で相反した主張を強調出来るという見物人意識が第三。つまりこの解決は行きづまりに来たということである。

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