文登《ぶんとう》の周生《しゅうせい》

 文登《ぶんとう》の周生《しゅうせい》は成《せい》生と少い時から学問を共にしたので、ちょうど後漢の公沙穆《こうさぼく》と呉祐《ごゆう》とが米を搗《つ》く所で知己《ちき》になって、後世から杵臼《ききゅう》の交《こう》といわれたような親しい仲であったが、成は貧乏であったから、しょっちゅう周のせわになっていた。そのうえ歯《とし》も周がうえであったから、成は周の細君を嫂《ねえ》さんと呼んで尊敬し、季節季節にはかならず来て一家の人のようにしていた。そうしているうちに周の細君がお産をした後で暴《にわか》に死んでしまったので、周はその継《あと》へ王姓の女を聘《めと》った。成はすこしささわりがあって来なかったので、王氏にはまだ逢っていなかった。 ある日王氏の弟が姉をみまいに来たので、周は居間で酒盛をしていた。そこへ成が遊びに来たので家の者がとりついだ。周は喜んで迎えようとしたが、礼儀の正しい成は居間へ通るのは失礼にあたるからといって入らずに帰っていった。周は席を表座敷へ移して、成を追っかけていって伴《つ》れ還《かえ》り、やがて席についたところで、人が来て、「今、別荘の下男が村役人につかまって、ひどく打たれております。」 といった。それは黄《こう》という吏部《りぶ》の官にいる者の牛飼《うしかい》が、牛を曳《ひ》いて周の家の田の中を通ったのがもとで、周の家の下男といいあらそいになり、それを走っていって主人に告げたので、主人の黄《こう》吏部は周の家の下男を捉《とら》えて村役人に送った。それがために周の家の下男が打たれて責められることになったのであった。周はその故《わけ》を聞いて大いに怒った。「黄の牧猪奴《ぶたかいめ》、よくもそんなことをしやがった。おやじは俺のお祖父《じい》さんにつかえていたくせに。すこしよくなったと思って、人をばかにしやがる。」 周は忿《いかり》がむらむらとこみあげて来て、どうしても押えることができないので、黄吏部の家へいこうとした。成はこれをおしとめていった。

— posted by id at 02:13 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1623 sec.

http://c-gen.jp/